名古屋高等裁判所 昭和40年(う)747号 判決 1966年3月10日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
所論の要旨は、原判決の認定にかかる、被告人が販売の目的をもつて所持した、わいせつ映画フイルム一四〇巻のうち五四巻は、未現像のフイルムであつて、科学的な処理を施さなければ画面を顕出することができないから、未だわいせつ図画とはいえないのに、原判決は、これをも含めて被告人を有罪としたので、原判決には、この点において事実誤認の瑕疵がある、というのである。
そこで、審接するに、原審において取り調べた証拠によれば、所論のいう「未現像の映画フイルム五四巻」は、被告人が自ら、女性二人をモデルに使い、淫びな動作で男女性交の姿態を実演させるなどして、その場面を撮影したもので、現像、編集の段階を経てこれを売却するつもりでいたところ、それに先立ち、発覚して検挙されたため、未現像のまま昭和四〇年二月二〇日司法警察員によつて領置され、次いで、被告人が加藤五美、加藤英夫らと共謀のうえ、右未現像のフイルムを、既に現像を終えた他のわいせつ映画フイルム三五巻と共に、昭和四〇年二月二〇日一宮市今伊勢町馬寄呑光寺西四八番地いぶき荘い号室坂本勝方において、販売の目的をもつて所持した、として起訴され、原判決は、判示第二の二の1において、これを被告人の犯罪事実と認定したことが認められる。
さて、撮影後未だ現像のなされていないフイルムは、そのままでは、撮影内容を知ることが不可能であるから、たとえ、わいせつ行為を撮影したものであつても、どのような形象が描写されているかを、視覚によつて認識することのできない未現像のフイルムが、果して、わいせつ図画に該当するか否か疑問がない訳ではない。しかしながら、わいせつの場響を撮影したものであれば、未現像の段階においても、潜在的には、既に製作者の企画にかかるわいせつ場面の映像がフイルムの上に描写されているのであつて、ただ単に、右映像を顕出するための現像の作業を残すのみであり、この作業たるや、特に、高度の知識、技能を要するものではなく、所定の科学的操作を繰り返すことによつて、比較的容易になされうる作業であり、しかも、現像は、撮影者その他製作企画者によつて、撮影の作業と一貫してなされる要はなく、他の者(たとえば、未現像のままのフイルムを買い受けた者)の意図によつてもなされ得るものであるから、未現像のまま転々領布、販売される可能性もあるものというべく、右のように、既に潜在的にわいせつ性を帯びており、現像も比較的容易になされ得るし、また、現像しないままでも領布、販売が可能である以上、このような未現像の映画フイルムも、刑法一七五条の意図する目的に照らし、同条所定の領布罪、販売罪、販売目的所持罪における、わいせつ図画に当るものと解するを相当とする。(未現像のフイルムをもつてしては公然陳列罪は成立する場合が考えられないことは、いうまでもない。)
しかして、本件未現像のフイルムが、卑わいな場面を撮影したものであることは、既に述べたとおりであり、このフイルムは、領置された後、警察官が被告人の承諾を得て現像し、現在当裁判所の押収(昭和四〇年押第二三二号の六四)するところであつて、その映像がわいせつの図画に該当するものであることは明白であるから、被告人が、本件未現像のフイルムを原判示日時場所において、販売する目的で所持していた事実を、わいせつ図画販売目的所持罪に当るとした原判決の認定は当然であつて、そこには、法令適用の誤りも、事実誤認のかども存しない。論旨は理由がない。(小淵連 村上悦雄 藤本忠雄)